S158 白石典之

作家番号：S158	白石典之	しらいし・のりゆき
	国籍：日本	生没年：1963/9/3～
日本の考古学者、モンゴル史学者、新潟大学教授。　群馬県生まれ。1986年に筑波大学考古学・民俗学を卒業し、同大学院歴史・人類学研究科へ進む。1994年に博士課程単位取得退学。専門はモンゴルの考古学。　1994年新潟大学人文学助手、1999年助教授，2006年教授。1999年に「モンゴル帝国史の考古学的研究」で新潟大学文学博士を取得。2003年には第1回「最優秀若手モンゴル学研究者」として、モンゴル国大統領表彰を受ける。

管理番号	書　　名		メ　　モ
S158-001	チンギス・カン		新たな視点で見直すチンギス・カン像

管理番号：S158-001

51 伝記・一代記・評伝　

出版社：中央公論新社

書名：チンギス・カン

“蒼き狼”の実像

ISBN4-12-101828-1　C1222

英題：Chinggis Khan（2006）

中公新書 1828

価格：760Yen

ページ数：248P

本のサイズ：新書

初版発行：2006/1/25

購入：2022/8/9

　はしがき　と題された文はこんな話から始まります。

　ある日のこと、講義が終わってホッとしている私のところに、学生たちが質問に訪れた。
　「先生の先ほどのお話の中で『チンギス・カン』とおっしゃっていましたが、私は高校で『チンギス・ハン』と習いました。どちらが正しいのでしょうか」と言う。この学生は、おそらく高校生の時に真面目に受験勉強をしたのだろう。たしかに、歴史教科書には「チンギス・ハン」と書かれている。
　「『カン』も『ハン』も同じ意味です。チンギスの生きた13世紀には、喉(のど)の奥から強く声をだして『カン』と発音していたものが、次第に現在のような『ハン』になったといわれています。私は、彼が生きていた当時の発音を重視して、『カン』の方を使っているのです」と答えると、いっしょに来た別の学生が、「私は『チンギス・ハーン』と聞いたことがあるのですが･･････」と口を開いた。（Pi）

　これをなぜ本の先頭に置いたかというと、この呼称の問題は意外と重要だったから。
　「大(イエケ)モンゴル国(ウルス)」（教科書では「モンゴル帝国」と呼ばれる）を建国したチンギス・カン、本名テムジンは、生前「カン」と呼ばれていたそうです。
　そもそも「カン」とは、ユーラシア北方の草原地帯にいたトルコ系・モンゴル系遊牧民族が使っていた称号で、国の〝王〟や部族〝長〟などの意味だったそうです。それに対し「ハーン」という称号があって、それは「カン」より上の唯一無二の君主を指す言葉であり、中国で言う〝皇帝〟と同義とされています。元は「カガン」という発音だったそうですが、13世紀ごろから「カァン（カーン）」となり、「カン」と同じような発音の変化があって「ハーン」となったのだとか。

チンギス・カン
キリル文字：Чингис хаан、ラテン文字：Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字：成吉思汗、英語：Genghis Khan
1162/5/31-1227/8/25

　モンゴル帝国の初代皇帝
（在位：1206-1227）
　大小様々な集団に分かれて互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

　であれば巨大帝国を作り上げたチンギスは「ハーン（カァン）」と呼ばれるべきなのですが、意外にも生前には「カン」と呼ばれ、彼が尊称として「カァン」と呼ばれたのは彼の子孫たちになってからなのだそうな。現代では、彼の故郷であるモンゴルでは「ハーン」だそうですが。
　彼の生前の時点では「王(カン)」であり、後世の人々の価値観によって「皇帝(ハーン)」に変わっていった、と考えるのがよさそうです。

　モンゴル族の源流について、『元朝秘史』はこのように記述しています。

　上天(じょうてん)の命(めい)によって、この世に生まれ出たボルテ・チノがいた。その妻はコアイ・マラルであった。大きな湖を渡ってきて、オノン河の源にあるブルカン・カルドゥン山麓に住みついた。（筆者抄訳）（P6）

　これは、モンゴル語を漢字音写したもので、原語に仮名のように中国漢字の「傍訳」がついています。このボルテには「蒼色」、チノには「狼」という漢字がついていました。
　この漢字音写本の『元朝秘史』を邦訳した那珂通世(なかみちよ)氏は、「ボルテ・チノ」を「蒼き狼」と訳しました。本来ボルテという単語は灰色を意味していたのですが、那珂氏の訳がインパクトがあったため日本では「蒼き狼」という言葉が有名になり、井上靖氏がチンギス一代記の題を「蒼き狼」としたため、日本では蒼き狼＝チンギスとなったのだそうな。誤りなのですけれど、著者個人としてはそれでいいのでは、と考えているとのこと。

　中国の史書においてモンゴルの祖先の姿が描写されたのは、8世紀に遡ります。
　唐の歴史をまとめた『旧唐書(くとうじょ)』の「室韋(しつい)」というグループについて書かれた中で、室韋の一支族として「蒙兀室韋(もうごつしつい)」という集団が登場しますが、これがモンゴル族の先祖といわれます。モンゴル族は大モンゴル国の中核となる部族であり、チンギスもむろんそれに属します。
　モンゴル族は、トルコ民族との争いを避けてアルクネ谷(クン)という所で暮らしていたということです。この「アルクネ」とはペルシャ語で、ロシア語ではアルグン河谷、モンゴル側ではエルグネと呼んでおり、モンゴル高原の草原地帯ではなくそれより北東の森林地帯であったそうな。彼らはこの、現代中国でも冬場はマイナス50度まで下がるという屈指の寒冷地で、半猟半牧の生活を送っていたようです。

　この眇たるモンゴル族が、四世紀にわたる雌伏の期間を経て、気候変動や中国その他周囲の王朝の変遷などの影響を受けつつ徐々に西進し、統一へと向かいます。

　12世紀からの金との抗争までの歴史を、モンゴル各部族の勢力範囲の変遷と共に「鉄」の産地と比較対照しています。気候による食生活の変遷と共に、地下資源も彼らの盛衰の要因と捕らえているところが興味深い。
　カムク・モンゴル国の君主の末裔としてテムジン、のちのチンギス・カンは生まれますが、彼の出生の秘密とか名前の由来とかの疑問は別として、テムジンという言葉には当時のモンゴル語で「鍛冶屋」という意味があったそうな。彼の生涯が鉄にいろいろな意味で関係したことを考えると、面白いとのこと。
　チンギスの生年には諸説あるそうです。西暦に直すと、『蒙韃備録』では1154年、『集史』では1155年、『元史』では1162年、『聖武親政録』では1167年となっています。一般的には『元史』の説が有力で、これに従うと没年の1227年から数えで享年66という事になるのだそうな。これに対し、フランスの有名な内陸アジア史学者ポール・ペリオ氏は1167年を支持しており、この方が多くのチンギスの事績にあうと考えたそうです。

　チンギス13歳の時に、モンゴル族の族長であった父イェスゲイは仇敵であるタタル族に謀殺されます。その後、弱小の家に転落したチンギスの家は辛酸を舐めることになるのです。

　当時のチンギス一家のようすを『元朝秘史』は、山梨や山桜の実、野生の韮(にら)・ネギを採り、川魚、野鼠(のねずみ)、タルバガン（プレーリードッグの一種）を捕まえて日々の糧にしたと伝える。
　しばしば、この記述の部分は、チンギスの窮乏を示すものとして、後世の歴史学者が利用してきた。たしかに、一国の君主となって以降のチンギスからみたら、それは悲惨な食糧事情だったかもしれない。だが、一般の民衆レベルからみたら、決して貧しいものとは言えない。賢母ホエルンのもとで、つつましく生きていたのだった。（P36-37）

　とは、著者が実際にモンゴル高原でフィールドワークをして居候させてもらった遊牧民などから取材したものだそうな。
　雌伏の時代のチンギスの家は、たしかに力もなく貧しかったが、それなりの放牧地を持つ部族の長であったようです。妻ボルテを迎える前の遊牧可能な土地面積は500平方キロメートル程度、結婚後にはその倍になっていました。

　チンギスの名が東西の史料に初めて出たのは、金と共にタタル族を殲滅したウルジャ河（1196）の戦いです。
　この戦いにおいてチンギスは『元朝秘史』によるとケレイト部族の君主トオリルと語らって金に助力し、父の仇であるタタル族を攻めて大きな戦果を上げたとされます。この戦勝は金の皇帝章宗の命で指揮官として遠征した完顔襄(かんがんじょう)（1140-1203）が残した戦勝記念碑により確認されています。
　この「九峰石壁戦勝碑」は戦いの後に金とモンゴルとの境界線をあきらかにするために設置され、ヘルレン河の南岸に今も残ります。この碑石は二基あり、女真字の方はモンゴルの言語学者によって紹介されていますが、漢字碑石を発見したのは1991年、日本を代表する北アジア考古学者の加藤晋平(かとうしんぺい)氏によるものなのだそうな。その調査行には著者も同行しており、

　新発見に漢字碑文に晩秋の斜陽で白く浮かぶ「襄」の文字を見たとき、寒さと感動で震えが止まらなかったことを鮮明に覚えている。（P43-44）

　という経験をされたのだそうな。
　この二つの碑文のどちらにもチンギスに関する記述はなく、モンゴル側が書くほどチンギスの功績は大きくなかった可能性はあるそうです。しかし金の皇室の一員である完顔襄の立場では、公式文書となる碑文に異民族の助けによって勝利したと書きたくはなかったのかも。とはいえテムジンは、トオリルと共に完顔襄にその功績を認められ官爵「ジャクト・ウリ(Ja'ud Quri)（百人隊長に相当）」が与えられています。
　この百人隊長という言葉で、当時のチンギスの勢力を知ることができます。動員可能な兵が百人いるということは百戸の配下を持つということであり、おおよそ300人程度を支配していたというのが妥当ではないか、と筆者はいいます。

　『元朝秘史』などの史料には、この頃数万の軍隊を動員して、戦いに向かう若き日のチンギスの勇姿が描かれているが、虚構の世界であることは、一目瞭然である。（P47）

　とは、手厳しいな。

　こうしてチンギスは、金の勢力下で勢力を伸ばしますが、モンゴルの中でも金に属さないグループとの対立が激化し、ついに1201年、コイテンという高原で対決しました。この戦いでモンゴル族の東部グループを撃破しますが、チンギス自身も首に毒矢をうけるなど苦戦しました。
　この戦いで、敵方の東部グループを率いたジャムカという人物について、著者はこんなことを書いています。

　東部グループの盟主はジャムカという人物だったとされる。あるときは盟友としてチンギスの窮地を救い、またあるときはその生命を脅かす存在として、ジャムカは『元朝秘史』や『集史』にたびたび登場する。神出鬼没で権謀術策を操る不思議な人物である。ジャダランの出身で、彼らを率いたとされるが、英雄潭にありがちな、主人公の生涯のライバルとして創作、あるいは実在者を脚色した人物といったところか。（P50）

　ふむ。
　ジャムカについては、チンギス・カンに関するいろいろな話の中で出てくる人物で記憶があります。Wikipediaでも実在の人物として描かれています。それが、お話を盛り上げるための架空のキャラクターかもね、とは。
　筆者の視点は面白い。

　1206年、チンギスの生まれ故郷オノン河上流にモンゴル族の有力者が集まり、最高意志決定会議「クリルタイ」が開かれます。その席上で、チンギスは「王(カン)」に推戴され、高原統一政権の初代君主となります。『元史』『集史』によると、このとき「チンギス」という称号が贈られ、これ以後テムジンと呼ばれなくなったのだとか。生誕年を1162年とすると、数えで45歳の時。

　注目すべきことは、皇帝に匹敵する「カアン」ではなくて、王や族長を表す「カン」の位に就いたという点である。しかし、「カアン」位に就いたのは、息子の第二代君主ウゲデイと第四代君主モンケ以降である。我が国の歴史教科書ではこの国を「モンゴル帝国」とよぶが、チンギスのころは「モンゴル王国」、あるいは「モンゴル・カン国」と呼称する方がふさわしい。（P59-60）

　とは、筆者の心意気的ななにかでしょうか。

　この一代記は、チンギスが大帝国を作った後、その後継者の話へと進みます。

　「もし狩りに出て多くの獲物が得たいのならばジョチのところへ行け。言い伝え、しきたりや格言を知りたいものはチャガタイのところへ行け。寛大さと富貴を望むものはウゲデイのところへ行け。名声を得たい者や世界征服をしたい者はトルイと共に行動せよ。」（P152）

　とチンギスが評した四人の息子たちの中で、ウゲデイがチンギスに後継者として指名されますが、チンギスの死後混乱が起き、最終的にウゲデイがカンの、そしてカアンの地位を継ぎますが、子孫たちに遺恨が残ります。
　ウゲデイについては、オゴデイという名で知られていますがオゴタイという呼び方もあります。モンゴル語の発音の問題です。これは、第五代君主(カアン)であるフビライが、当時ホビライと呼ばれクビライと記されるときもあったりで、めんどうな話ですね。

　この評伝は、時代的にはチンギスの死後ウゲデイが父を越えようとして無謀な戦いと兄弟の軋轢を残して没するまで、そして第5章でチンギスの死後の忘却、伝説化、調査、歴史再構成の歴史が語られ、そして

　～〝未来への遺産〟として後世に伝えたいものがある。それはチンギス自身の、誕生から現在に至るまでの軌跡である。彼は特別な人間ではなかった。どこにでもいる一人の遊牧民であった。ただ、時代が彼を求めた。彼はそれに応えただけであった。彼の評価が史実を越えて過剰になるのは、その死後のことである。あるときは英雄と崇められ、また、あるときは殺戮者として貶められた。彼の姿はそのときどきの政治にゆがめられた。そこには人間の愚行がみえてくる。偏った視点が誤った人物像を形作る歴史を、我々は目の当たりにしてきたはずである。それなのに人類は同じことを繰り返そうとしている。我々はときどき立ち止まり、チンギス・カンのことを顧みる必要があろう。二度と過ちを繰り返さないためにも。（P223-224）

　という言葉で終わります。
　なるほどね。

　研究書の集大成のようなものなのですが、実に面白い。
　この本は、いつか余裕ができたら、じっくり読み直して再び楽しみたい評伝・一代記のひとつです。（2025/2/20）

　読書メーターの記録より　　読了：2022/9/21